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- 寺史展示室のご案内
千妙寺には多くの貴重な歴史的史料があります。しかし、近年、堂宇の老朽化が著しく史料の保存が危ぶまれましたので、茨城県立歴史館に保全のため寄託しておりましたが、このたび県立歴史館並びに㈱日展様の多大なるご指導を賜り、当寺にて保管し、展示室を設けました。
是非、ご来山いただき、千妙寺の歴史にふれていただきたく存じます。
尚、今後の展示につきましても歴史館のご教示を頂き、順次展示換えをして皆様方のご展覧に供したいと存じます。
千妙寺の主な至宝
絹本著色 日吉山王本地仏曼荼羅図
茨城県指定有形文化財
法量:94.0cm×36.2cm
日吉山王は、比叡山の麓(滋賀県大津市)に鎮座する大社です。かつて比叡山は日枝山『古事記』で記されたように、日枝(日吉)大社は比叡山の地主神、守護神として崇拝され、山王社とも称されてきました。
比叡山に天台宗の総本山延暦寺が開かれると、その信仰と習合し全国に広がりをみせ、千妙寺とも深い関係があります。
その日吉大社の神域には、上・中・下 7社ずつの21社が鎮座されていますが、この図は画面上部に幔幕、下部に回廊・階が描かれ、全体で一つの社殿を表現し、その中に日吉大社の主要な神々を集約して描いています。そして、神々はそれぞれの本来の姿であるとされる仏(本地仏)の姿で描かれています。このように、神々を仏の姿で描き、ある法則に従って並べたものを、本地仏曼荼羅図といいます。
600年ほど前の鎌倉時代末期の作品です。
絹本著色 毘沙門天二脇侍像
茨城県指定有形文化財
右手に三叉戟、左手に宝塔を持ち、足下には二邪気を踏みつけた、典型的な毘沙門天像です。
また両脇侍には、妻の吉祥天と子の善膩師童子像を配す三尊形式をとっています。
甲冑は細部まで精緻に描かれ、衣紋の一部には切金も使われています。また衣の裾のなびく表現にも躍動感があります。鎌倉時代中期ころの作とみられます。
絹本著色 護法童子像
筑西市指定文化財
法量:78.8cm×37.7cm
朱色で、かつ忿怒形の護法童子(制多迦童子)です。
両手を胸元で交叉させ、左手に独鈷杵、右手に金色の杖を握り、波立つ岩のうえに前傾姿勢で立っています。衆生に害なす者があれば、すぐさま駆けつける様子で描かれています。
この像容は、天龍寺15世・龍湫周沢(1309-1388)の描く様式に拠るものといわれます。例えば香川県宇多津町・円通寺の周沢作の同像と様式的に共通する点もあり、この像もその影響を受けた絵師の筆による可能性があります。以上の点から、南北朝期ころの作と思われます。
絹本著色 馬形護法童子像
筑西市指定文化財
法量:58.4cm×33.3cm
護法童子(制多迦童子)が白馬に乗り、衆生救済に向かう様子を描いています。
激しく燃え盛る火焔を背負い、右手に金剛棒を執る容姿は、朱色と細い墨線の輪郭により緻密に表現されています。
一方の白馬は、墨の打ち込みが明確な肥痩線で輪郭が描かれ、躍動感に溢れています。朱と白のコントラストが絶妙であり、制作年代は鎌倉時代末期ころに位置づけられるでしょう。
裏側には、永禄6年(1563)に曼殊院覚恕准后からの下賜を示す文書が貼付されています。
絹本著色 刀八毘沙門天星宿像
筑西市指定文化財
裏書には刀八(兜跋)毘沙門天と記されています。足下では邪鬼を踏みつけ、両脇にはそれぞれ弓と宝珠を持った道服姿の侍者が配されています。像の上部には北斗七星、および円相内に九曜星が描かれています。
全体の構図の解明は今後の課題ですが、星祭とも称される追儺式で毘沙門天が邪鬼を払うという信仰に基づいている可能性があります。
画風からみて鎌倉時代末期から南北朝期ころに制作されたと思われます。
茅屋山水蒔絵硯箱
筑西市指定文化財
被蓋造り削り面取りの硯箱です。蓋表は梨子地に高蒔絵(立体的になるよう漆を盛り上げて構図を描き、そこに金粉を蒔く技法)で茅屋と山水を、蓋裏は同じく高蒔絵で秋草に岩と流水を描いています。
秋草文様を取り入れた漆工芸であり、その様式から制作は江戸時代初期とみられます。
銅製 五鈷鈴
筑西市指定文化財
五鈷鈴は、五鈷杵の一方が鈴身となっており、この鈴の音によって、迷いを払い、神仏を歓喜させると言われます。鈴身と把部に連珠文をめぐらしているが特徴的です。脇鈷の曲線は緩やかであり、鎌倉時代末期ころの制作とみられます。
縁起には、10世紀亮珎が海難に遭ったとき、これを投じて助かり、しかも川を遡って戻ってきたとあります。そこで別名を「瀬登の鈴」とも称されています。
銅製 五鈷杵
筑西市指定文化財
当初は武器であった金剛杵(vajra ヴィジェラ)のうち、中鈷と4つの脇鈷がついた法具が五鈷杵です。
この五鈷杵の鬼目(きもく)は比較的大きく古風ですが、脇鈷の曲線が緩やかであり、制作は鎌倉時代末期とみられます。
縁起では、14世紀の千妙寺第7世・亮禅のころに、護法童子が噛んで、亮禅に投げ返したといわれ、別名「護法の五鈷」とも呼ばれます。