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2021年9月法話『正解(せいかい)と正解(しょうげ)』
2021年08月21日
正解(せいかい)と正解(しょうげ)
学校で先生が質問をする。答えるのは生徒だ。では、生徒が先生に質問をしたら、先生はどうするだろうか。
優秀な先生だったら、すぐには正解を出さないはずだ。学ぶのは生徒たちだ。即座に答えたならば、生徒自身が考える機会を奪うことになりかねない。学ぶには努力がいることを忘れてはならない。その努力は正しい答えを導き出すために費やされる作業なのだ。
そのように正解を求めて努力するのが学校だと言える。
学校ばかりでなく世間においても、誤解は混乱を招き、正解は安心を与える。
正解ということばは学問の範ちゅうを越えてさまざまな個所で使われている。
たとえば、
「雨が降りそうだったから、傘を持って来たのは正解だった」
予測が当たったのである。
「宝くじを買って正解だった」
当たったのだろう。幸運ということか。
今まで述べたのは正解(せいかい)と読んだ時のことだ。
では、正解(しょうげ)と読んだら、お釈迦さまの登場だ。
正解(しょうげ)とはお釈迦さまが悟りを開いた〝悟り〟のことを言う。
悟りを開けば仏である。尊崇される存在になるのである。となれば、私たち凡夫とは関係ないように思うのだが、お釈迦さまは、そんなことを言ってはいけない。
つまり、私たちは「仏の子」であると説いている。仏の子であるからこそ私たちは仏になることができると、釈尊は保障してくれているのだ。
ありがたいことではないか。でも、努力が課せられている。
阿 純孝