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2020年7月法話『開会(かいかい)と開会(かいえ)』
開会(かいかい)と開会(かいえ)
会議であれ宴会であれ、何らかの目的があって人が集まれば、その会を進行させるための司会役が必要だ。集会が大きくなれば、開会式や閉会式を設けなければならないだろう。
開会式のないオリンピックは考えられない。甲子園の高校野球大会だって実際の試合と同じぐらい開会式は重要視されている。
開会宣言などという厳めしいことばを使わずとも、小さな会合だって開会のことばぐらいはあるだろう。そうしなければ会は始まらないのである。
これが開会(かいかい)だが、開会(かいえ)と読む場合がある。こう読むと、仏教的な意味に変わる。
この開会(かいえ)は法華経の教義に由来したことばなのだ。
とにかく簡単に説明しよう。
法華経以前の修行者のあり方は三通りあり、それを乗りものにたとえて〝三乗〟といっている。
その一つは声聞乗。釈尊の教えを聴聞し、仏弟子となって阿羅漢果という境地を得るグループ。
次には独覚乗(縁覚乗)。指導者に頼らず独自に悟りを目ざす修行者。
三番目は菩薩乗。大乗仏教の修行者を指す。在家出家を問わず発心して他を利するために仏道を修行する者。
この三乗は、法華経の精神から見れば、一乗思想を身につけさせるための方便(手段)の教えであるとする。つまり、すべての生きとし生けるものが仏になれるという一乗の教えこそが真実の教えであり、それを説く時機がいよいよ到来したと法華経は説くのである。これを「三乗を開して一乗に会す」という。「‐‐‐開して‐‐‐会す」だから、開会の思想といっている。川の水が海に流れつくように三乗はすべて一乗に帰すことになっているのである。なぜそういえるのかといえば、
生きとし生けるものすべては仏の子であるからだと見るのである。
とするならば、私たちは仏の子なのだから、それを誇りとして、仏らしくすべきではないだろうか。
仏の子であることを忘れてはならない。
(阿 純孝)