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2020年3月法話『観察(かんさつ)と観察(かんざつ)』
観察(かんさつ)と観察(かんざつ)
観察(かんさつ)ということばを聞くと、小学生だったころの理科の時間を思い出す。
巣箱にアリンコを入れて、その生態を観察したり、チューリップの球根、朝顔の種を植木鉢に植え、芽が出る様子を克明に観察してその結果をノートに記録するのである。だから、登校するとすぐに巣箱や植木鉢をのぞき込むのが日課となった。ところが、記録するのが面倒臭かったから、「克明に観察」など、どこの世界のことなのかとまるで考えることすらなかった。
私の記録といえば、「まだ芽がでません」「今日も芽が出ません」「明日はどうか」など、実に分かりやすいが、これでは見ただけであって観察とはいえない。
観察といえば、あらゆる現象を自然の状態のまま客観的に注意深く見ることだと思うが、多くの専門家の観察力のおかげで私たちの日常生活が潤っているとさえいえる。農業にしろ漁業にしろ天気予報にしろ、あらゆる分野の発達の基本は自然観察をなくしては成り立ち得ないだろう。
さて、その観察だが、もとはといえば仏教語から派生したことばである。
仏教用語としての〝観察〟は(かんざつ)と読む習わしになっているが、世親の『浄土論』で浄土教の修行方法として「五念門」が説かれているが、その中心は「観察門」である。この場合の観察(かんざつ)とは、心を集中させ、阿弥陀如来のお姿や浄土のありさまを克明に心に映すことだが、如実に仏の世界を観ぜられるよう実践する修行方法で、今から千年前の平安時代の学僧である恵心僧都が『往生要集』で最も大切にしたのが「正修念仏」の章であり、その中心が「観察門」である。その中で恵心僧都はこう述べている。「初心の行者は心が乱れやすいので別想観、惣相観、雑略観から修行したらよい」と。
別想観とは、仏の身体的特徴である相好をひとつひとつ観想する方法。
惣想観とは、浄土の広大な蓮台に坐していらっしゃる阿弥陀如来を観想することによって、自らが浄土の光明の中にいると想念する方法。
雑略観とは、仏の眉間の白毫を観想する、あるいは自らが浄土に往生したと心に念ずる方法。
つまり、行住坐臥、いかなる時も浄土の仏を念じ続ける修行方法である。要するに、「仏と共に歩むわたくし」という思いを抱くことではないだろうか。
ということで、観察には自然科学的な意味としての(かんさつ)と宗教的内容の観察(かんざつ)との二つの意味がある。このどちらも人間生活の上で重要な意味を持っているのだから、両面観察しようではないか。(阿 純孝)