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2016年4月法話『心清浄』
2016年03月17日
心清浄
私が幼稚園の園長をしていた時のこと。雨上がりのある日、男の子が園庭でしくしく泣いていました。
そこに年長組の女の子が来て、「どうしたの、泣いてばかりいないで話してごらんなさい」と、まるで母親がわが子を諭すように言いました。
男の子は泣きながら小声で、
「水たまりに入って、靴下が汚れた」
すると、女の子は、「何よ。靴下が汚れたぐらいで泣くことないでしょ」とたしなめ、汚れた靴下を見て、「汚れたら洗えばいいのよ。元が白いんだから、洗えば元通り白くなるわよ」と言いました。
私はその様子を傍で見ていて感心しました。というのは、その時、法華経の一節をふと思い出したからです。
「汚れても元が白ければ白くなる」
(これだ)と思ったのです。
法華経には、『五百弟子受記品』という章の中に「衣裏繋珠の喩え」があります。
家もない貧しい男が金持ちの親友の家を訪ね、大変なご馳走に預かり、満足して寝込んでしまいました。親友は、彼の今後を見かねて、高価な宝石を彼の着物の裏に縫い込んでやりました。なのに、そんなことはとっくに忘れ、相変わらず貧しい放浪生活をしたという話です。
さてここで、着物の裏に縫い込んだ「宝石」とは何か、ということです。
法華経では、私たちのことを「仏の子」と言っていますので、恐らくそれにちがいありません。だとしたならば、仏の子ですから、心は清浄なはずです。
ところが、私たちはそのことに気づくことなく、なぜか心を汚してしまうのです。
でも、安心してください。女の子が言った通りです。元が白い(清浄)のですか
ら、洗えば白くなるではありませんか。
私たちの心は、元が清浄なおかげで、元に戻れるのです。仏の子であることを忘
れて、放浪生活をしたのでは、それこそ宝の持ち腐れです。