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2022年6月法話『大衆(たいしゅう)と大衆(だいしゅ)』
2022年05月27日
大衆(たいしゅう)と大衆(だいしゅ)
マスメディアが対象とするところは一般大衆だろう。なにしろ数が多いから商売になる。庶民的だから気が楽だ。大衆向けは気取らなくていい。
大衆浴場といえば銭湯・湯屋。大衆食堂といえばヤキトリの匂いがただよう。大衆酒場といった途端にざわめきが聞こえる。大衆魚は庶民が食う魚だが、最近は大衆魚の筆頭のサバが人気が出て、大衆魚らしくなくなった。
さらに驚くのは文学だ。純文学に対して大衆文学がある。どこで区別するのかといったら、これは難しい問題だ。純文学は少数派、大衆文学は多数派といった程度にしておいた方が無難だ。
さて、ここからが本題なのです。
本来は、大衆(たいしゅう)とは読まず、(だいしゅ)あるいは(だいしゅう)といった。そして、その意味は、僧侶たちの集まりのことであった。説法の会坐に集まったり、さまざまな作務にいそしんだりした。
最も有名になった大衆(だいしゅ)は、平安時代、比叡山の大衆は日吉山王の神輿をかつぎ、興福寺の大衆は春日大社の神木を押し立てて朝廷に強訴したことだ。
僧侶の集団である大衆(だいしゅ)も政治集団になったこともあるのだ。 (阿 純孝)