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2022年3月法話『施行(しこう)と施行(せぎょう)』
施行(しこう)と施行(せぎょう)
国の評価は経済にあると言う人もいるが、その国に住みたいと思えるような国がよいのではないか。とするならば、第一に考えなければならないことは、安全安心だろう。
それには、その国の法律がよくなければならないだろう。国民にとっての国民のための法律を持つことだ。一部の人のための法律であってはならない。だが、いくら国民のための法律であっても、それを守ろうとする義務感が欠如していては、絵に描いた餅だ。
法律が施行(しこう)されたならば守らねばならない。それが安全安心の尺度だと思う。
法律の施行(しこう)と義務は一体化している。
さて、仏教でも施行という言葉は大切だ。この場合は、施行(しこう)とはいわず、施行(せぎょう)と読み意味もちがう。
施行(せぎょう)は、布施を行う修行のことであり、菩薩になるための徳行のひとつなのである。
菩薩になるためには六波羅蜜を修さねばならない。波羅蜜(はらみつ)とは彼岸に到るための修行と言ったらよいだろう。その修行方法が六つあるから六波羅蜜という。
布施(ほどこすこと。人のために尽くすこと)
持戒(戒を守ること)
忍辱(苦難に耐え忍ぶこと)
精進(たえず仏道に勤しむこと)
禅定(瞑想し心を統一させること)
智慧(悟りを完成させる智慧を働かせること)
これは菩薩が仏道を完成させるための修行方法だが、仏道にかぎらず、あらゆる修行に応用することができると思う。
スポーツ、学問、芸術、芸能など、その奥義を極めるには修行方法としての道が必要だ。それが六波羅蜜である。
その六波羅蜜の第一が布施行である。人のためを考えない努力は、かえってしない方がいい。そのためにも、人を第一に思う「施行」(せぎょう)は大切なのである。
「布行」が単なる親切ではなく「施行」として認められるには「三輪清浄」という三つの条件が具備していなければならないと仏教では説いている。つまり、施者と受者と施物が清浄であることが布施の条件なのだ。この場合の清浄とは、打算がないこと、たくらみがないこと、自分を勘定にいれないことと受け取ったらよい。そうすると、円い輪がゴツゴツせずに気持ちよく回るように三者わだかまりがないことだから「三輪」といっている。
伝教大師が「己を忘れ他を利するは慈悲の極みなり」と説かれたが、「己を忘れる」ということは「心清浄」でなければならず、だからこそ、「慈悲の極み」になる。 (阿 純孝)