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2016年3月法話『時は盗人』
時は盗人
「時は盗人」という名セリフがあります。
一時代前に流行った映画『オータム・イン・ニューヨーク』の中で老女が嘆いた言葉です。
歳を取ればとるほど、時は泥棒のように、彼女から若さを奪い、歩行の自由を奪い、記憶力すら取り上げ、挙句の果てに生命さえも奪ってしまう。そのような意味で「時は盗人」という名セリフが生まれたのです。さすがに名映画だと思いましたが、この名セリフを鵜呑みにしてはいけません。
時は私たちの人生を奪うだけではないからです。子どもを見れば、そのことがよく分かります。
こどもは、時が経つに従って、背は伸び、体力は強化され、知識は豊かになるではありませんか。時は成長をうながしてくれるのです。とすれば、時は私たちに様々なものを与えてくれる「福の神」です。なのに、福の神であるはずの「時」が盗人呼ばわりされるのはなぜなのでしょうか。
それは、若さは保ちがたく、老と死が忍び寄るからです。
では、老と死はなぜあるのか。その疑問に対して「十二因縁」では、このように説いています。「生あるを縁として老死あり」と。生まれたから老と死がある。生まれなければ老死もないのです。つまり、生まれるということの中に生存を否定する要素がすでに含まれているという意味なのです。とすれば、「生は不条理」と言わざるを得ません。しかも、生を否定する条件がいつ現れるかすら分からないのです。
死の条件が揃えば、死なざるを得ません。が、今のところ、生きる条件が優先しているので生きていられるのです。そのような不安定さが「生」には付きまとっています。したがって、今生きている、その時その時がいかに貴重なことなのかとつくづく思います。
津田左右吉博士は、今日一日の時の大切さを和歌にして詠んでいます。
明日いかならむは知らず
けふの日の
けふするわざに 命あり
津田左右吉博士は、中国古代思想から日本の全歴史を文献学的に究明し、真実に基づいて見直した偉大なる学者で、「津田史学」と称賛されました。悠久の時間である歴史を解明しようとする姿勢が今日一日にあることに頭が下がります。
私たちは、明日に期待をかけていますが、今日、今の中にこそ命があることを博士は示唆してくれているのです。