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2021年7月法話『遊戯(ゆうぎ)と遊戯(ゆげ)』
遊戯(ゆうぎ)と遊戯(ゆげ)
遊戯(ゆうぎ)という言葉を聞くと、幼稚園や保育園での子どもたちの様子が目に浮かぶ。幼児施設では遊びが幼児教育の中心で、遊びを通して生活の仕方を学ぶ。やがて、小学校に通うようになると、学習が教育の中心となって教科書が必要となり、遊びは学習の傍らに置かれてしまう。
となると、遊戯とは幼児期に経験しなければならない必須条件だと言える。
『国語辞典』によると、
「遊戯(ゆうぎ)とは、幼稚園や小学校の低学年の子どもにリズム感を与えたり、団体行動の訓練をさせたりするために行う簡単な遊びや踊り」
とある。幼児施設での子どもたちの遊びを保護者に見てもらうために”お遊戯会”がある。現在は「生活発表会」という表現をしている。その方が趣旨にふさわしいからだ。遊戯(ゆうぎ)は子どもたちの生活そのものなのだ。
だから、遊戯(ゆうぎ)は子どもの独占かと思ったら、そうではない。仏教でも、すでに”遊戯”がある。その場合、(ゆうぎ)とは言わず(ゆげ)と読む。勿論、意味もちがう。
仏教が説く「遊戯」(ゆげ)は、
菩薩が自由自在に活動することなのだ。何ものにもとらわれない自由さが”遊”である。
『岩波仏教事典』では、
「遊戯(ゆげ)とは、仏・菩薩の自由自在で何ものにもとらわれないことをいう」
と説明している。また、『往生要集』(大文第二)でも、
「無量の天人・聖衆は、心のままに遊戯す」と、語っている。
天人聖衆の遊戯はともかくとして、仏・菩薩は、なに故に遊戯(ゆげ)するのだろうか。
『法華経・観世音普門品』で、無尽意菩薩が世尊にこんな質問をした。
「世尊よ、観世音菩薩は、云何にしてこの娑婆世界に遊ぶや。云何にして衆生のために法を説くや」
観世音菩薩は、私たちが住むこの娑婆にどのようにして自由自在に活動し、衆生を教化するのであろうかという質問である。
これに対してこう答えている。
「観世音菩薩は、種々の形を以って、諸の国土に遊び、衆生を度脱(すく)うなり」と。
つまり、この世にいる私たちを救済するためには、私たちと同じような姿になって、寄り添ってくださるのだ。
観世音菩薩の御名を唱える人々の声を観じて、観世音菩薩は三十三身のあらゆる姿に身を変えて、さまざまな場所や場面に出現して衆生済度するという。
ウルトラマンや仮面ライダーの変身ぶりを超えているのではないか。
もしかして、私たちのとなりにいる人が、観世音菩薩(観音さま)かも知れない。
そのような救済のための「変身」が、観世音菩薩の「遊戯」(ゆげ)なのである。
(阿 純孝)