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2021年3月法話『一雨(ひとあめ)と一雨(いちう)』
2021年02月19日
一雨(ひとあめ)と一雨(いちう)
「一雨(ひとあめ)ごとに暖かくなりましたね」と言われると、春はすぐそこに来ているような気がしてうれしくなる。
春が過ぎて日照り続きの夏が来ると、「一雨(ひとあめ)欲しいね」と、雨を恋しく思う。
この時季になると、今は昔のことになったが真夏日を避けてよしず張りのかき氷屋が店を出し、そこに白のランニングシャツに麦わら帽子の子どもらがたむろする。
そのように一雨(ひとあめ)という言葉を聞いただけで、日本の情緒が目に浮かぶ。
ところが、この一雨(ひとあめ)を一雨(いちう)と読んだ途端に仏教の教えに早変わりする。
一雨(いちう)とは、『法華経・薬草喩品』に説く法華一乘の教えを雨にたとえた言葉なのだ。
雨は草木を潤し、成長を助ける。そればかりではない。差別なく平等に降りそそぐのである。
では、一乗・一雨の「一」とは何か。
二つとは、あれかこれか、いいかわるいか、大きいか小さいかといったように対立が生じる。そこで、「一」とは、対立のない絶対の真理を表わす意味を示し、一乗とは真実の仏の教えのことなのだ。
一乗という乗物の行く先は、仏の世界、悟りの彼岸へと乗せてくれるのだ。乗客は生きとし生けるものすべて。
『法華経・譬喩品』でこう説いている。
「今、この三界は、皆、これ、わが有なり。その中の衆生は悉くこれ吾が子なり」
と、仏さまが自ら、全ては私の子であると述べているのだから、みんな仏の子なのだ。
そこで問題。
私が仏の子であるのはうれしいことだが、あんな奴が仏の子か、そんなバカな!!
と思ったりはしないだろうか。
どうしても人は自分の好みで決めたがる。まずは、仏さまのお言葉を尊重しようではないか。 (阿 純孝)