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2021年2月法話『抑止(よくし)と抑止(おくし)』
抑止(よくし)と抑止(おくし)
抑止(よくし)とは、物事の進行をおさえつけることと辞典では解説している。
たとえば、「物価の髙騰を抑止する方策はないか」というのがいい例だろう。
また、「抑止」に「力」を加えて、抑止力という言葉が一般化している。
最近、いたるところに防犯カメラが設置されているが、そのことによって犯罪の抑止力になるというではないか。犯罪ばかりでなく核兵器は戦争の抑止力にもなっている。かといって、犯罪や戦争がなくなるかといえば、そんなことはない。相変わらず殺人はあるし盗難は消えない。紛争は世界のどこかで今も引き起こされている。どうしようもないことなのだろうか。持って生まれた人間の性なのだろうか。防犯カメラや核兵器の抑止力に頼らずとも、ほかに有効な抑止力はないものだろうか。
それはある、ただひとつ。人と人とが思いやることだ。
さて、この「抑止」はもとは仏教語なのだ。仏教では(よくし)を(おくし)と発音する。
では、仏教が説く「抑止」(おくし)とはどのようなことなのだろうか。
仏さまは、生きとし生ける者を差別することなくすべてお救いくださる。それが仏さまの慈悲なのだ。それは大変ありがたいことなのに人はその差別なき慈悲心を逆手にとって利用しようとする。つまり、極悪人でも救われるのだから、安心して悪いことができると豪語する。そこで、仏も抑止力(よくしりょく)を持たねばならない。悪行の者は、仏は救わないと表向き宣言するのが仏教で説く抑止(おくし)なのである。
『無量寿経』では
「罪を犯したり正法を誹謗する者は仏の救いから外される」
と説かれているが、『観無量寿経』では
「善悪に関わりなく、わずか十遍南無阿弥陀仏と称えれば、仏さまは救ってくださる」
と説いている。
『無量寿経』の教えか『観無量寿経』の教えか、一体どちらが正しいのかと疑問に思うところだが、経典を疑うわけにはいかない。
そこで、唐の時代の浄土思想家の善導は、このように会通した。
『無量寿経』は悪行を抑止するために方便として悪行の者は救わないと説いて、これを「抑止門」(おくしもん)と名づけ、『観無量寿経』で説いている悪人救済を「摂取門」(せっしゅもん)と名づけ、両方の教えがそれぞれ正しいと解釈した。
ちなみに『佛教語大辞典』(中村元著)によれば、
「衆生を悪に入れないため、しばらく慈悲を隠し、悪人は救わないといって悪を戒めることを抑止門という。これに対し善悪一切を例外なく受け入れる方面を摂受門(摂取門)という」
とある。抑止(おくし)と摂取(せっしゅ)の説は、道徳と宗教を考える上で参考になると思う。 (阿 純孝)