2020年10月法話『再び「三密」について』

2020年09月20日

2016.9月 撮影

再び「三密」について

 

ありがたくうれしいことがあった。

私は数年前からケイタイでも見ることができる「千妙寺公式ページ」を作り、そこに法話を掲載しているが、はりきって載せたのではない。

(私の法話なんかだれも関心を示しはしない。それでもやろう。自分自身のなまけ予防のために)

 そんな思いではじめたことだから、多くを期待したわけではない。ところが、最近何んと大阪在住のお方からお電話を頂いた。

 まったくびっくりした。

 話はこうだ。

 私は六月の法話でコロナ予防のために三密にならないようにと知事たちが市民に呼び掛けているのを知り、三密なら意味はちがうが、密教の教えではないか、ならば、ことの序でに「密教の三密」を知ってもらおうと思い、六月の法話で取り上げた。これについて、大阪のお方からのご質問は

「密教といえば真言宗の空海ですが、天台宗でも『三密』の教えがあるのですか」

ということだった。

 これについて次のようにお答えした。

 密教の中心的思想は「わが身そのままで仏の身になれる」という即身成仏を説く教えです。

 その方法は、身口意の三業を仏の三密に転ずることであります。

 私たちが日常過ごしている生き方を分析してみますと、身体の各所を使って行動(身業)し、口でしゃべり(口業)、心で思う(意業)。この三つの働きによって生きているのです。

それを三業といっています。

 この三業に対して三密とは、

 (身密)手を使って秘密の印(仏さまの所作)を結び、仏さまの身体を身に着ける。

 (口密)口で真言(仏さまを表す言語)を唱える

 (意密)心に仏さまのお姿を思い描くこと、

これを三密というのですが、口で真言を唱え、手で印を結び、瞑想して仏を観念することです。この行によって私たちの日常の三業を三密に転じていくのが密教の修行方法です。

三業を三密に転じていくには私たちだけの行では成就できません、私たちは力不足ですから、仏さまからの大いなる慈悲の力が加わってはじめて成し遂げることができるのです。これを「加持」といいます。

さてここで、ひとつ問題があります。

たとえ話をします。

ここに鏡があるとします。透き通るようにきれいな鏡です。これならば、ものを正しく映すことができます。ところが、その鏡が歪んでいたり、汚れていたとしたらどうでしょう。当然ありのままには映りません。それは映す対象のせいでしょうか、鏡のせいでしょうか。もちろん、歪んだり汚れたりする鏡がいけないのです。ならば、汚れを落としたり、歪みを正したりすればよいですね。それが三密の役割なのです。

さらにもうひとつ見ておかねばならないことがあります。

それは、鏡にはありのままにものを映す要素を備えているということです。その要素があるから汚れや歪みを正すことができるのです。

つまり、私たちにはすでに仏に成れる要素を備えているという意味でもあります。

このことを主張したのが「天台本覚思想」であります。

私たちは、だれでもが仏心を保持していることを忘れてはなりません。

さらに、この三密を現代に生きるわたしたちは社会に向かってどのように生かしたらよいのでしょうか。

社会の中にあって三密を生かすには、ちょっとだけ仏さまになった気持ちを持つことが大切だと思います。 

阿 純孝



お知らせ