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2019年2月法話 『内緒・内証のはなし』
内緒・内証のはなし
「あなたは口が堅いから話すのだから、ほかの人には言わないでほしい。内緒のはなしだ」
と言われると、聞きたいような聞きたくないような、しかも危険な気分にさえなる。でも聞きたいと思うのが内緒話だ。内緒ごとは表だって公にできないからこそスリリングでもある。
ところで、内緒は元は内証に由来するといわれている。
内証とは仏教語であり、自らの心のうちで真理を悟ること、内心の悟りと広辞苑では説明している。
その発端は、…。
お釈迦様はカピラ城の王子であったが、道を求めて出家し厳しい苦行をしたが無意味であることを知り、汚れた身体を清め、村娘スジャータからミルクの供養を受けた後、ピッパラ樹(アシヴァッタ樹ともいう。後に菩提樹と呼ばれるようになった)の根下で禅定した。やがて、夜は白み明けの明星が光を放つと同時に悟りを開いたと伝えられている。悟りの境地は心地よいものであるらしい。釈尊は長らく法悦に浸っていると、天界の王、梵天の知るところとなり、梵天は
(是非ともこのような悟りは多くの人々に知ってもらいたいものだ)と思い、釈尊に懇請した。釈尊はその懇請をお受けにならなかった。それはことばでは伝えることが大変むずかしく、理解できないと思われたからだ。これを内証という。人に伝える方法を見出せないほどむずかしい真理を意味することばである。ところが、いつしか意味が変わり、人に伝えると不利になるから内密にする内緒ごとになってしまった。つまり、真理は伝えにくいのが内証。本当のことを伝えたくないのが内緒。ことばの音は同じでも文字にすると意味はまるでちがう。
さて、釈尊は意を決して〝梵天の懇請〟を受け入れて説法の旅に出られた。それから二千五百年、釈尊の教えは世界に広まり、多くの人々の心の支えになっている。