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2018年11月法話 『杓子定規』
2018年10月16日
杓子定規
『広辞苑』では、杓子のことを「飯または汁などの食物をすくいとる具で、頭は小皿のようでこれに柄をつけたもの」と七面倒臭い説明がなされているが、要するにシャモジのことだ。柄は真っすぐだが、先が丸く曲がっているため、物をすくうには便利だが、寸法を計るには不向きだ。そんなものを定規に使おうとすれば、誤った基準でものをはかることになってしまう。そんな杓子をも定規にしてしまうのだから、あまりにも定規本意の考えだ。そこで、杓子定規とは、規則にとらわれるあまり、応用融通がきかないことのたとえになった。
かつてこんな話があった。
ある学校で遅刻する生徒が多いので、時間厳守をはかろうと、先生が時間通りに勢いよく校門をしめたら、生徒が門に挟まれて死んだという事故があった。これなど、規則本意でちょっと周りを見るゆとりがあれば死なずにすんだものをと悔やまれる。
勿論、規則を守ることは大切なことだが、人間にはそれぞれの事情がある。守りたくても守れない状態だってある。
釈尊は中道の原理を発見された。極端にとらわれてはいけない。ものごとには調和があるはずだから、調和を見出すことをこころがけよと説かれた。そのようにおおらかな人生の歩みを釈尊はのぞまれた。