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2018年9月法話 『水の月』
2018年08月24日
水の月
中秋の名月には、昔のことだが、たらい桶に湯を張り、そこに月が映った頃を見計らって湯浴みをしたとか、盃に酒を注ぎ、名月を映して飲み干したなどという遊びがあったそうだ。「お月見」とは、脱俗の風流を味わう行事だとばかり思っていたが、意外や俗っぽい。
ところで、「水の月」ということばがあるが、このことばから受ける印象は、湖に映る月影、渡月橋にかかる月、田毎の月などと日本画的風景だろう。しかしながら、「水の月」が意味するところはそうではない。
水は鏡のようになんでもすなおにあるがままに映す。好悪差別はしない。月が丸ければ丸いまま、三日月ならばそのまま。そのように現象を現象のまま映すだけで実体はない。そのことを「水の月」というのである。
したがって、水に映る月を取ることはできない。手を水中に伸ばしたとて手がぬれるだけだ。
「水の月(を)取る猿」ということわざがある。取りようのないものに手を出す浅はかさを猿にたとえた句だ。
この世に存在するあらゆるものは変化する。止めようがない。それを離すまいとしっかりつかみ取ろうとしても無理なのだ。それは〝水の月〟だから。
ならば私たちはどうか。
私たちには赤ん坊の時があった。やがて、少年、青年、壮年、老年と時は移り変わる。
さて、少年の時はすでに幼児期は消え去り、老年はまだ来ない。だが、その少年の時も止まることなく過ぎ去る。そのようにとらえようもなく変化するのが生きるということなのだろう。だからこそ、消えゆく今を大切にしなければならない。「水の月」とは、そんな教えでもある。