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2016年7月法話『足を洗うに手を使う』
足を洗うに手を使う
「足を洗うに手を使う」という言葉が古くから言い伝えられています。
だから、格言とか諺の類に属すると思うのですが、それにしても、あまりにも通俗的過ぎますし、だれでもが何気なくやっている日常生活そのままの描写です。
ならば、ありふれた日常用語なのに、なぜ今に伝えられているのでしょうか。
そんな考えをしていると、こっそり私に耳打ちした男がいました。
「これは内緒の話だけど、ヤクザの世界と縁を切るのを『足を洗う』というだろ。その世界に入るのは造作ないが、やめるとなると、そりゃ厄介なものさ。だから、あの手この手を使わねばならん。そういうことよ」
実に明解な解釈ではありますが、そんな意味なら、言い伝えられることなく、とっくに消えていることでしょう。
私は思うに、洗い物をするのに手を使うのは当たり前のことです。何も足だけでなく、皿を洗うにも野菜を洗うにも、洗いものはすべて手でします。
なのに、「足を洗うに・・・」と、足を強調するのには意味がありそうです。
もし仮に、足の汚れは自己責任ということで、手が手助けをしなかったとしたら、足は足で洗わなければなりません。
そんなこと、うまくいくはずはありません。やはり手の助けが必要です。では、足は無用なのでしょうか。
そんなことはありません。歩くとき走るときには足が必要です。手ではうまくいきません。そのように「餅は餅屋」があるのです。
私たちは,全能ではありません。かといって無能でもありません。どこかに取り得があります。それを生かして他のために働くことの大切さを「足を洗うに手を使う」と言ったのでしょう。
自分の得手とするところが他の人のためになれば、こんなうれしいことはありません。
天台宗で行っている「一隅を照らす運動」もこの精神です。