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2016年5月法話『あっちを立てれば』
2016年04月28日
あっちを立てれば
レストランで
「お飲み物は何になさいますか」
と、ボーイさんに聞かれたら、自分が飲みたいものを注文する事でしょう。
それを決めかねて、
「あなたにお任せします」なんて言う人はいません。自分の好みは人任せにはできないからです。
ところが、自分の好き勝手に決めることもできず、かといって、どちらかを“是„として選ぶのが難しいことがあります。
ある幼稚園の園庭で蜘蛛の巣にかかった蝶を見た園児が、
「ねえ先生、蝶がかわいそうだから、助けて上げて」
と、言ったので、先生は(きれいな蝶がかわいそう)と思い、逃がしてやりました。
すると、他の園児が、
「先生、かわいそうじゃないか」
と、言うではありませんか。先生は、
「だから、逃がしてあげたでしょ」
と、言い返すと、その子は、
「蜘蛛がかわいそうじゃないか」
と、言ったとのことです。
私たちは、ともすると、きれいな蝶を贔屓にしがちですが、あのグロテスクな蜘蛛だって生きているのです。
蝶は蜘蛛にとっては生命をつなぐ餌、つまり命の糧ではありませんか。なのに、そこに人が介入してよいものなのでしょうか。
ここで、はたと考えてしまいます。蝶も蜘蛛も同じ生命ある生き物です。
私たちはどうしたらよいのでしょうか。
蝶を助ければ蜘蛛がかわいそうな状態になりますし、そのままにすれば蝶がかわいそうです。私たちには、なすすべがありません。
涅槃経では「一切衆生悉有仏性」(生きとし生けるものすべてに仏性が備わっている)と述べています。ですから、美しい蝶にも気味悪い蜘蛛にも平等に仏性はあるのです。
だとしたならば、私たちは、自分の好みにまかせての行いは慎まねばなりません。